【ファミリーボランティアの事例紹介①】家族で海外からのホームビジットや児童養護施設の子どもたちを受け入れる

「家族でボランティア」を長い間実践してきた佐々木照子JAVE理事。その生き方そのものが「ファミリーボランティア」と言えます。

Q.そもそもどんなご家庭だったのですか?

 夫の母は、私が嫁いできたときにはもう亡くなられていたのですが、生活に困っている人をずっと助けてこられた方でした。いつも夫の父が台所でお米を炊いておいて、夫が仕事から帰ってきたら、お冷やを持って近所の困っている方のところに配るということをずっとやっていました。

 私は昭和36年(1961年)くらいにWHO善意銀行(昭和39年に東京善意銀行となる)という今の社会福祉協議会のボランティアセンターの元のようなところに登録してボランティアを始めたのですが、そこで気を付けたのが、「家族とともにできる活動」ということです。

 

Q.具体的にどんな活動をされてきたのですか?

 まず、海外からの研修生のホームビジットの受け入れです。お花を教え、一泊してもらうというものなのですが、希望者が100人くらいありました。

 私の家では、1月は正月、2月は夫の妹の誕生日、というように毎月一回くらい家族が集まってお祝いをする機会があったのですが、研修生はそれに合わせて受け入れていました。わざわざイベントをやるのではなく、家族が集まっているところに来てもらったです。

 東南アジアの男性が多かったのですが、日本の歌を知っていると言うので、歌ってもらうと軍歌なんですね。夫の父がその日は大っぴらに軍歌が歌えるということでとても喜んでいました。

 あとは近くの児童養護施設からの子どもの受け入れですね。

 最初は施設の職員が一緒に来てたのですが、職員がいると結局施設の延長にしかならないんですね。だから途中から、子どもだけで来てもらうようにしました。中学生の子が年下の子を連れてくるんです。

 里親的なこともしました。里親に関しては、夫から「途中で止めるくらいなら、最初からするな」と言われました。

 

 ある時、お父さんが有名な作家の先生で、お母さんが病院に入院するという3歳の子を預かったことがありました。最初は1週間ということでお預かりしたのですが、1週間経っても、2週間経っても何の連絡もありません。

 施設の方は、「他の預かり先を探しましょうか?」と言われたのですが、私はそれに対して、「子どもは品物じゃないのよ」と怒りました。最初、全く知らない環境で泣いてばかりいた子が、ようやく私の子どもたちとも遊ぶようになり、ごはんも食べるようになったのです。それをまた違うところに行けば、その子は不安でしょう。そして、その子を預かることで、私の子どもたちも成長したと思います。

 結局、迎えに来られたのは3か月半後でした。

 

 他にも、杉並区にある「さゆりの寮」、小平市にあるサレジオ白煙・ヒフミ学園、江戸川区にあるベタニヤ母子寮、大田区にある聖フランシスコ子ども寮など、様々な施設のお子さんをお招きしました。

 良い関係ができてくると施設からも様々な行事にお招きを受けるようになり、素晴らしい交流ができていきました。そんな交流の中で、冬休み(お正月)や夏休みに家庭に帰ることができない子どもを10日から2週間くらい泊めるというご相談を受け、2~3人を受け入れることが25年くらい続いたでしょうか。

 

 私の家族と共にお正月を楽しみ、夏休みは私の子どもと共に賑やかに楽しく過ごしました。そして、一緒に私の実家に里帰りをしまして、上越新幹線を体験し、柏崎の日本海の海で泳ぎ、山上のお墓参りをし、実りつつある稲穂やいなごが飛び交う姿を見て、暑い夏を満喫したのは本当にいい思い出です。

 

Q.家族で活動していく際に、何か葛藤はありませんでしたか?

 もともと私の家族は、夫の母の影響もあり、活動に反対されることはありませんでした。私は毎年IAVEの世界会議に参加していましたが、夫は旅費も準備してくれ、喜んで送りだしてくれたのです。

 ただ、子どもたちを受け入れる際は、「どうしても我が子を優先してしまう」という自分との心理的な戦いはありました。それは自分にとってのまさに訓練だったとふり返って思います。